まして外科医の彼が、内科医の著者に意見を求めるのは、ちっとも不思議なことではなかった。
大学時代の同級生の杉山君が、ひょっこり著者の研究室を訪ねてきてくれた。
彼も著者も海外に留学していたりしたので、会うのはほぼ十年ぶりくらいだった。
杉山君はもともとは外科医だ。
メスをふるっていたのだが、今は転身し、大手会社の医療本部長として、健診を中心にした医療活動を続けている。
しばらく昔話に花を咲かせた。
そのあと、杉山君は八枚の胸部レントゲン写真をカバンからやおら取り出した。
著者にその写真を見て欲しいというわけだ。
いずれも健診で撮った写真で、異常か正常かのコメントを聞きたいとのことだった。
レントゲン写真や、検査の結果についてコメントを求められることは少なくない。
というのも、同じ検査結果に対しても医者によっては解釈が分かれることがよくあるからだ。
ある医者は全く問題なしとするのに、くつの医者は異常だと判定したりする。
それは見解の相違ということもあろう。
じっは、その八枚の写真は、会社の健診で撮ったものだ。
はっきり肺ガンと診断できた一枚、それから異常なしと判定された六枚については、何の問題もなかった。
問題は、著者が「肺ガンの疑いあり」と判断した一枚の写真だった。
会社の健診で撮った写真は、二人の専門医が判定している。
問題になった写真は、二人の医者とも、わずかに陰影があるが、少なくとも様子をみてよいと判定したそうだ。
結果を聞いた会社員は、当然ながら、放置しておいた。
ところがだ。
写真の主の会社員は二年後に肺ガンが見つかった。
そして、治療の甲斐もなく、どれどれ。
著者は彼が差し出したレントゲン写真を、一枚ずつ手にとって見ることにした。
八枚の中に、一枚ははっきりと肺ガンと診断できる写真があった。
これなら、どんな医者だって見落としたりはしないだろう。
そしてくつの一枚は、はっきりと肺ガンとはいいきれないが、肺ガンの疑いがあり、CT検査などで精密検査が必要と判断する写真であった。
残りの六枚の写真は、全く異常はなく、健康な肺であると判定した。
即座にその判断を杉山君に話した。
診断した根拠についても、意見を述べた。
それを聞いた彼は感心したようなそぶりを示した。
そして、頭を掻きながら、次のように白状たそうだ。
急逝してしまったのだった。
納得できないのが、遺族である。
会社の健診で毎年検査を受け、とくに異常がないといわれてきた。
それなのに、急逝したのは、服に落ちない。
実際、肺ガンが分かった時点で、病院の医者に二年前の健診のフイルムをみてもらったところ、その時点ですでに異常があった。
それを見過ごした会社の健診に責任がある。
こうして、遺族が訴訟を起こしたというわけだ。
会社の健診を統括する立場にある杉山君は、訴訟を真っ向から受けて立つ羽目になった。
そこで、資料を集めるために、果たして問題の写真が見落とされてもしかたがないほどの微妙なものか、あるいは見落としてはいけないほどのものか、著者のほかにも、数人の医者に試して歩いているという。
こういういきさつであった。
それを聞いた著者は、実験台にされて憤慨したわけではなく、やはり健診の落とし穴を改めて思い知ることになった。
改めて写真をじっくりと見直してはみた。
が、やはり肺ガンとは断定できず、あくまでも「異常が疑われる」としか、判定しようがなかった。
まさにグレーの結果だった。
後日談になる。
一審でも、また上告した二審でも、裁判の結果は、杉山君たちは敗訴しなかっ多数を対象とした健診では、明確に判断できないレントゲン写真を見過ごすことは、ある程度は止むなしとの判決理由だったそうだ。
少なくとも二人の専門医がみて、明確な結論を出せなかったくらいの所見は、健診だけに責任を負わせることはできないというわけだった。
じっは、健診による胸部レントゲン写真の結果をめぐっては、落とし穴がよくあるらしい。
杉山君と会ってから、医療に関する訴訟を気にするようになった。
あるとき、杉山君の話とほとんどそっくりの記事が新聞に出ていた。
某大学病院の人間ドックを、五二歳の男性が受けた。
胸のレントゲン写真を含め、呼吸機能にまったく異常はないと判定された。
ところが、その二ヵ月後に男性は体調不良を訴え、くつの病院に入院した。
その病院での診断は、何と〃末期〃の肺ガンだと診断されたという。
そして、治療を受けたものの、ほどなくしてガンのために亡くなったそうだ。
わずか二ヵ月前に受けた大学病院での人間ドックではまったくの健康と判定されていた。
それが、ほんの二ヵ月で〃末期〃の肺ガンで死亡するなんて、納得できない。
遺族は人間ドックを担当した大学と担当医師を相手取り、損害賠償を求める訴えを起こしたという。
検診後わずか五ヵ月で進行乳ガンに。
この話は、著者自身が経験したものではない。
たまたま医療訴訟関係の記事を集めていたら、目にとまったものだ。
やはりガン検診の落とし穴に入ってしまった典型的な例なので、ここで紹介しておきたい。
六九歳の女性が市町村が実施している乳ガン検診を受けた。
検診では、乳房の視診と触診がお医者の立場からいわせていただくと、レントゲン写真のような画像診断では、明確な判定を下すのがむずかしいことがよくある。
それを誤診といわれればそれまでだが、現実には微妙な判定では意見が分かれてもしかたがないと思う。
健診で受けた判定は尊重すべきだ。
だが、健診の結果だけを盲信せずに、少なくとも体調に何らかの異変を感じたときには、早めに病院にかかるべきだと思う。
そして、信頼のおける医者に納得がいくまで相談をした方がよいだろう。
こなわれた。
いずれも異常所見がないと診断され、女性はすっかり安心したそうだ。
ところが、検診を受けてからわずか五ヵ月後に、彼女は左胸に痛みを感じるようになった。
そこで、病院にかかったところ、左乳房に直径三センチメートルほどの大きさの腫溜(しこりのことを医学的にこういう)があり、乳ガンと診断されたのだった。
しかも左膝下のリンパ節に転移があり、進行した乳ガンであることが分かった。
こうした判決理由で、原告の請求は棄却されたそうだ。
もちろん、裁判の結果がどうのこうのというつもりはない。
勝訴して賠償金をもらうのが目的なんかでは決してない。
それよりも大切なのは、いかに健康を守るかである。
早速に乳房の摘出と肢下リンパ節の手術を受けた。
しかし、ほぼ十一ヵ月後に肝臓に乳ガンが転移してしまい、死亡してしまったという。
検診を受けて正常といわれてから、わずか一年四ヵ月後に、乳ガンが原因で死亡してしまったのだ。
この件でも合点のいかない遺族が訴訟を起こした。
検診を担当した医師に過失があるとして、検診をおこなった市を訴えたものだ。
経過を考えれば、少なくとも、検診の時点で一センチメートルくらいの腫癌があったと推定される。
だから、それを医者が見落としたのは重大な過失というわけだ。
裁判では、次のような判断が下された。
経過から考えて、検診の時点で一センチメートルほどの腫漕があった可能性がおおいにある。
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